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【将棋】どうでもいい雑学とか豆知識「初手に90分」「1手に5時間」「5手で投了」

みなさんこんにちは、サメブログ編集部のさめはだです。

今回は将棋に関する雑学や豆知識などをテキトーに書いております。

00. 藤井聡太七冠の肩書きは、「七冠」ではなく「竜王・名人」

史上最年少で名人を獲得したことで、七冠王となった藤井聡太七冠。

ニュースなどでは「藤井七冠が〜」とかよく聞きますが、将棋界には七冠という肩書は存在しない。正しくは「藤井聡太竜王・名人」が正解で、これを知っている人は将棋通だ。

この理由は、竜王位と名人位は他のタイトル(王位・叡王・王座・棋王・王将・棋聖)とは別格と考えるのが古くからの慣習で、それだけ威厳のあるタイトルと考えられているからなのだそうだ。

01. 「前竜王」と「前名人」という肩書きがあった。

解説:将棋はタイトルを取ると、名前の後ろに「〜名人」「〜王将」などタイトルの肩書きを付けて呼ばれます。

そして、タイトルを失った際には「〜九段」に戻るのですが、1990年代までは竜王と名人のタイトルに限って、失った後1年間だけ「前竜王」「前名人」と名乗ることができたのです。

実際に米長邦雄名人が1994年に名人位を失った際に「前名人」を名乗っていたし、羽生善治九段も1990年に竜王を失った際に「前竜王」を名乗っていました。

02. 昔は持ち時間30時間の7日制の対局があった。

解説:現在の棋戦だと、持ち時間は最大でも9時間(2日制)ですが、昔は持ち時間が30時間(7日制)の対局があった。

時は1937年、木村義雄ー阪田三吉の対局が京都の南禅寺で行われるのだが、この将棋の持ち時間が各30時間という当時としても異例なものだった。

03. 朝10時に始まった対局が、翌朝9時過ぎまで終わらなかったことがある。

2004年6月25日の順位戦B級1組☗行方尚史七段ー☖中川大輔七段戦。

朝10時に始まった対局は深夜1時35分に241手で持将棋となり引き分け。指し直し局は早朝4時58分に122手で千日手となり引き分け。指し直し第2局で行方七段が勝ち、終局時刻は午前9時15分だった。

順位戦は持ち時間が各6時間と1日制の将棋では最長で、お互いに持ち時間を使い切ると終局が深夜0時を回ることも珍しいことではない。

04. 大山康晴十五世名人の通算成績は、自己申告による記録が入っている。

大山康晴十五世名人の通算成績は、1433勝(781敗)という偉大な記録だが、このうち若い頃の棋譜(17歳〜23歳頃まで)を将棋連盟は紛失してしまった。

原因は太平洋戦争によるものなのだが、のちに大山名人が将棋連盟とは別に自ら棋譜を取っていたことがわかる。

大山名人が言うことだ、信じよう。ということになり、現在でも日本将棋連盟の公式記録として扱っている。

05. 一手に使った消費時間の記録は5時間24分。

公式戦における、一手に使った最大の消費時間はなんと「5時間24分!」である。

この記録保持者は堀口一史座八段で、歴史的大長考に沈んだ局面で指された一手がこれだ!

古い記録によると、持ち時間11時間制の将棋で金子金五郎九段が一手に6時間34分考えた記録や、30時間の将棋で阪田三吉が6時間考えたなどもある。

なお、歴史上最高の長考として、勝田仙吉(後の九代大橋宗与)対小野五平(十二世名人)の対局で、一手に26時間かけたとの言い伝えがある。

06. 将棋をしている男女の割合は割合は98:2

インターネット対局サイト「将棋倶楽部24」で、2000年ごろに利用者にアンケートを行ったことがあった。その中で、「性別は?」という項目で集計結果は98%以上が男性で、女性の割合は2%弱だった。

女性は将棋に向いていない。とも言われるが、そもそも根本的に競技人口の割合が問題なのだ。

07. 日曜朝のNHKでやってる将棋番組の視聴率は1.0%以下

2000年前後と、かなり昔のデータになるが将棋の視聴率は平均して1.0%を超えない。

これは、対局者が羽生善治九段などのトップ棋士だろうが、トーナメントの決勝戦だろうが関係なくこの数字なのだ。

08. 初手に90分使った棋士がいる。

1922年の☗木村義雄五段☖高浜禎五段戦。持ち時間無制限というルールだったこともあり、木村五段の初手☗7六歩に対し、後手の高浜五段が☖3四歩を指すのに90分かけたという。

09. 勝ちの局面で投了した棋士がいる。

勝ちの局面で投了する。

10. 藤井七冠は「入玉宣言法」というルールを理解していない。

島田さん:最後に覚えた将棋のルールは?

藤井竜王:そうですね.....。私は入玉宣言法をちゃんと覚えていないので(笑)

島田さん:(笑)

藤井竜王:いまだに覚えていない(笑)

2022年某日、とある書籍のインタビューでの内容。

将棋のルールには、「入玉宣言法」と言うルールがある。2013年に新たに導入されたルールで、長い将棋の歴史上新しいルールができるのは珍しい。

まずルールを簡単に説明すると、持将棋模様の局面で、引き分けの提案をしても相手の同意が得られないときに「入玉宣言法」を発動できる。

この時点で対局は一旦ストップ。お互いの駒の点数を計算し、宣言した方が31点以上あった場合勝利。24点〜30点の場合は引き分けとなる。(詳しいルールはネットで調べてください。)

公式戦で「入玉宣言法」が発動したケースはなく、女流棋戦では一度のみ。

11. 棋聖戦のタイトル戦は、1994年度までは年2期だった。

なぜだろうか、8大タイトル戦のなかで「棋聖戦」だけは年に2期開催されていた。

12. 順位戦には第1期〜第5期がない。

名人戦の予選リーグとして毎年開催されている順位戦だが、第1期〜第5期までは順位戦は存在していなかった。

これは、名人戦が先にスタートして、後から予選リーグとしての順位戦を導入したためである。

13. アマチュア・女流棋士・奨励会三段との初対局で、3連敗した棋士がいる。

阿久津主税八段は1999年10月1日に17歳で四段昇段。

プロ入り後、初対局となった新人王戦の斎田晴子女流三段戦で敗北。プロ入り後2局目の対局が林隆弘アマとの竜王戦だったがまたまた敗北。1年後の新人王戦で奨励会三段の佐藤圭一郎三段と対局も敗北し、三冠達成。

斎田晴子女流三段(1999年10月11日・新人王戦)林隆弘アマ(1999年12月6日・竜王戦6組ランキング戦)佐藤圭一郎三段戦(2000年11月16日・新人王戦)

14. 「王将」を作ったのは豊臣秀吉。

現在では、上位者が「王将」下位者が「玉将」と言う慣わしになっているが、昔は二枚とも「玉将」だった。

王将ができた経緯は定かではないが、玉では宝になってしまう、王にせよ!といい、二人の王は要らぬとのことから、一枚だけ王将になったとか。

15. 佐藤康光九段は目隠し将棋で6人相手に全勝したことがある。

若き日の佐藤康光九段は、目隠しをして6人相手に(相手は目隠しではない)全勝したことがある。

目隠し将棋はプロ棋士でも難しいとされており、特に持ち歩の枚数や端歩の関係が終盤で曖昧になり、反則手を指すこともしばしば。

16. 一手詰めを見落として負けた棋士がいる。

一手詰めを見落として負けてしまったのは郷田真隆七段だ。

先手谷川浩司竜王ー後手郷田真隆七段戦の終盤で図の局面。

☖6二同飛と取れば後手の郷田七段が勝ちだったのだが、ここで郷田七段の指した手はなんと☖5三香!...。以下はお分かりだろう。☗5一金打までの一手詰みである。

あの羽生善治九段も一手詰めを見落として頓死したことがある。

2001年の竜王戦挑戦者決定三番勝負と言う大一番。終盤で図の局面を迎えた。

後手の木村一基五段が☖5六銀と王手をしたところが問題の局面だ。敵陣に桂馬がいるため、逃げ場所は☗7五玉、☗7六玉、☗6六玉、☗6四玉の四択だ。

このうち☗7六玉と☗6六玉なら先手勝ち、☗7五玉は☖5五飛と打たれて馬を抜かれるがすぐに負けることはない。そして羽生善治五冠の指した手はなんと☗6四玉!だった。

対戦相手の木村五段もこれにはビックリ。☖6五飛までの頓死である。

17. 千日手は、攻めている側が手を変えなければいけない、という規定だった。

千日手の概念は江戸時代からあったのだが、終盤でしか起きないものと考えられていたため、攻めている側・仕掛けた側が手を変えるといった曖昧な規定だった。

現在の規定の元となるルールができたのは1927年のことで、ここから千日手のルールはしばしば細かく変わっている。

18. 毎年11月17日は将棋の日と定められている。

将棋の日が11月17日に制定されたのは1975年。江戸時代の旧暦11月17日にお城将棋と呼ばれる年中行事を行なっていたことに基づいている。

19. 棋士の中には芸名ならぬ「棋名」で指す棋士もいる。

プロ棋士のほとんどは本名で将棋を指すが、中には芸名ならぬ「棋名」で指す棋士もいる。

元A級棋士で1984年までプロで活躍された灘蓮照九段(本名:灘照一)は、棋名ではなく僧名を名乗られていた。1981年まで現役で活躍された本間爽悦八段(本名:本間一雄)は姓名判断に凝られていたらしく、より良い名前をと改名した。田中魁秀八段(本名:田中正之)は、師匠の本間爽悦八段に一緒に変えようと言われ、半ば強引に改名させられたという。

20. 女流棋士は発足した当初、対男性棋士戦で38連敗している。

現代では里見香奈、西山朋花、など、男性棋士と互角に戦える女流棋士も増えてきたものの、発足当初の女流棋士のレベルは現在とは比較にならないほど弱かった。

女流棋士の公式戦初戦は1981年、それから12年間にわたって38連敗をしていた。女流棋士が初勝利を挙げたのは1993年の竜王戦☗中井広恵女流名人☖池田修市一六段戦で、歴史的初勝利を挙げた。

21. 5手で投了した棋士がいる。

1972年7月26日の☗桜井昇五段☖下平幸男七段戦。持ち時間10分の棋戦で、下平七段は5分の遅刻をした。理由は列車事故によるもの。規定では「遅刻は3倍の時間を引かれる」ことになっているため、持ち時間が0を下回り下平の不戦敗になるはず。だが、理事会は「事故」だったことと、「5分」ということを考慮し、将棋を指すように指示。

下平は「規則に則り、遅刻した私は負けのはずだ」と主張したが通らず、結局将棋を指すことにしたが、わざと必敗の局面にして5手で投了したのだ。

22. 封じ手の5秒前に指した棋士がいる。

1996年の名人戦、羽生善治名人対森内俊之八段戦。時刻は17時29分55秒。

「時間になりましたので、手番の...」と、五十嵐九段の言葉に、森内が手が盤上にのびた。

「マナー違反」や「心理作戦」などの報道もあったが、森内いわく、「封じ手をしたくなかった。ただそれだけです。」

23. 島朗九段と丸山忠久九段の対戦成績は0勝20敗

トップ棋士同士でも星が偏ることは珍しくはないが、この二人の星は極端に偏っている。島九段は初代竜王・A級9期を誇るトップ棋士だったが、丸山九段には相性が悪かったのだ。

近年では豊島将之九段と佐藤天彦九段の例がある。この二人はお互いに名人経験者だが成績は豊島九段の20勝6敗で、佐藤天彦九段は2016年から現在まで対豊島戦13連敗中である。

また、タイトル通算31期を誇る渡辺明九段も藤井聡太竜王・名人にはあまり勝てず、通算成績は4勝20敗と散々なものとなっている。

24. 2015年に誕生した新棋戦である叡王戦は、「棋神」「天帝」「一刀座」など9つの案から投票で決定した。

2015年に新棋戦として生まれた叡王戦は、3422票の投票で選ばれて決まった。

叡王の他の候補として最終的に、「覇王」「賢王」「仁王」「棋帝」「抗帝」「天帝」「一刀座」「棋神」があった。

それにしても一刀座(いっとうざ)てあんた...、カッコヨス。

以上!将棋界の雑学、いかがだっただろうか!

またいいネタを仕入れたら更新したいと思う。

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